可愛いのはあなた 下


 

 夕暮れの街は、仕事帰りの人で割と賑やかだった。比較的大きな通りに面したブティックやレストラン、カフェや本屋さんも大抵はまだ開いている。日中の活気を色濃く残した通りを、バンコランの腕に頬を寄せて歩くだけで、ぼくはスキップをしたくなる位楽しかった。彼はそうでもないのか、葉巻を咥えウインドウのあちこちを指して話しかけるぼくに頷いたり、短い答えを返している。
「ねえ、楽しい?」
 ふと不安になって、つい聞いてしまった。
 楽しくない、つまらないと言われたらどうして良いのか分からないくせに。
 ああ、ぼくは本当に、
「バカだな」
「ひどい」
「何?」
「自分でもそう思うけど、あなたに面と向かって言われるとさすがに傷つくよ」
「何の話だ?」
 目を丸くしているバンコランの顔を見て、やっと気付いた。彼はエスパーでも何でもない。ぼくの思考なんて読めない。彼はただ、ぼくが口にした問いに答えてくれただけなのに。
「マライヒ?」
 急に黙ってしまったぼくの顔を。バンコランが覗き込む。
「ごめん、大丈夫。なんでもないんだ」
 慌てて顔を上げたぼくの頭を、彼の大きな手がくしゃりと撫でる。
「おまえは本当にバカだな」
「何度も言わないで」
 自分でもよく分かっているんだから。
「恋人とのデートを楽しまない男がどこにいる」
「え」
 言葉の意味をつかみ損ねてぽかんと口を開けたぼくの頭が、もう一度撫でられる。
「楽しくなければ、意味もなく街中を歩いたりはせん」
 髪の毛を混ぜ返していた力強い腕が、そのまま頭を彼の厚い胸元に引き寄せてくれる。
 大丈夫だと言われている気がして。ここにいて良いと言われているように思えて。泣きそうになってしまった。もう半分泣いているのかも知れない。本当に本当にバカな自分を心の中で叱りつける。甘えすぎるな。ちゃんと、自分の足で立つんだ。そうでなければ、彼の隣には居られない。
「うん。・・・ありがとう」
 きちんと顔を上げて、バンコランの顔を見て微笑む。大丈夫。もう、大丈夫だよ。
 いこう、と彼の腕をとって、再び街を歩き始めた。
 
 
 店が途切れ、通りがやや細くなり住宅地に差し掛かる手前の交差点。いつもは車で通る道。街灯の下に、見慣れない露店が出ていた、
 ぼくがそれに気付いたのと同時にバンコランもそれにを目を留めたようだったので、どうする?と視線で問うた。
 街中の目新しい露天商。ただ河岸を変えただけのニューフェイスなら問題はないけれど、何らかの悪企みに関係する可能性もある。古い手口ではあるが、犯罪者やこれから罪を犯そうとする人物に、武器や情報を売りたい情報屋やチンピラがコンタクトを取るために一夜限りの露店を張ることもあるのだ。彼は、信号待ちをするふりをしつつ少し考えてから、極小さく、ぼくにしか分からない程度に頷いた。
「ねえ、見て」
 今日何度目になるか知れない台詞を、心持ち大きめの声で口にする。何だ、と返したバンコランの腕を引いて、露店へ向かう。
「こんなところにお店が出てるよ」
 近づけば、地面に広げられた敷物や低いテーブルの上には、古びたアクセサリーやコンパクトなどの小物類が並んでいる。やはり、ぼくから誘った形にして良かった。バンコランが自発的に足を止めるにはいかにも不自然な品揃えだ。
「わあ、可愛い。アンティークですか?」
 半分本心、半分は探りを入れるつもりで、初老の店主に話しかける。バンコランは、様子を見るつもりなのだろう。しゃがみ込んだぼくの斜め後ろに立って、葉巻に火を付けている。少し面倒そうな表情を装いつつ、店主を観察しているはずだ。
「そこまで古くはないものもあるけどねえ。大体5,60年前のものが多いな、今は。ああ、でもこのあたりのは古いよ。100年以上前のブローチもある」
 にこやかに返事をしつつ、店主は木の箱にアクセサリーを並べてある一角を指した。言葉は淀みなく、視線も泳がない。よく見ると、品揃えも、方向性はあるがバラエティに富んでいる。急ごしらえの露店ではなさそうだ。
「このカメオは?」
 店主の指した一角から、薄いブルーの地に白で髪の長い麗人を浮かび上がらせたカメオのブローチを手に取る。
「そうだそうだ。それも古いよ。確か、貴族のお屋敷から出てきたんじゃなかったかな」
「へえ」
 カメオには珍しい、まっすぐな長い髪にやや線の強い端正な横顔。着ている服にレースが控えめなこともあって、そこまで精緻に描かれている訳ではないので見ようによっては男性にも見える。いいや、むしろ男性の横顔なのかも知れない。ぼくがそう見てしまうだけなのかも知れないけれど。
「古いけど、綺麗だろう?なかなか良いものだと思うよ」
 バンコランも、この店はとりあえず問題なしと踏んだのだろう。店主の解説を聞きつつカメオを眺めていたぼくの傍らに浅くかがんだ。長く美しい黒髪が、彼の背を流れる。大好きで堪らない端正な横顔が、視界を掠めた。
「何か気に入ったものでもあったのか」
「うん。このカメオのブローチ」
 あなたに似てるでしょ?
 これも心の中で付け足しておく。さすがに、口には出しづらい。
 金具の具合を見ようと裏を見ると、しっかりとした金具の横に、極小さい値札シールが貼ってある。丁寧に書き込まれた値段は、さっきバンコランが飲んだ赤ワインのボトル二本分。アンティークのカメオにしてはなかなか手頃な値段。
決定だ。
ここまでやる偽の露天商などそうはいない。
思わず笑ってしまったぼくと同じ結論に至ったのだろうバンコランと目が合った。
「買ってくれる?」
 ぼくの言葉に、バンコランはすんなり頷いて立ち上がり、ポケットから札入れを取り出した。
 
 
「ただいまー」
 鍵を差し込んで扉を開き、手探りで照明を付ける。ぱっと明るくなったマンションの室内は、もちろん無人だ。
 バンコランと一緒に出かけて一緒に帰宅したのだから、誰もいないと分かりきっている部屋に帰宅を告げたぼくを彼が笑う。またおかしな奴だと思われただろうか。それでも。
「あなたも言って」
「何を?」
「ただいまって」
 廊下を歩きながら上着を脱ぎ、タイを緩める彼を追って言い募る。
「だれに?」
「ぼくに」
 差し出された上着を受け取りつつ答えたぼくに、バンコランは。
「一緒に帰ってきたんだぞ?」
と、噛んで含めるような口調で言った。
「そうなんだけど」
 それは分かってるし本当にそうなんだけど。一緒に出かけて一緒に帰ってくる。同じ場所に戻ってきたあなたを迎えたいし、ぼくもあなたに迎えて欲しい。一緒≠もっと実感したい。だから、言って欲しい。
「ぼくはもう先にただいまって言ったから。あなたも言って。ぼくがお帰りなさいって言うから」
 自分でも屈折してると思うし、道理が通ってるとも思わないから、彼に本当のことが言えなくて、屁理屈を捏ねた。ああ、またおかしな子だって呆れられる。風変わりも行き過ぎるとアクになる。この辺でやめておかなくては。
 諦めて、上着とタイをクローゼットにしまいにいこうとすると、
「マライヒ」
と、呼び止められた。
 振り向くとバンコランは少しだけ笑っていた。眉間に皺の一つも寄っているだろうと思っていたのに。
「ただいま」
「・・・おかえりなさい」
 そう答えると同時に、思わず彼に抱きついていた。
 嬉しい。すごく嬉しい。バンコランの力強い腕が、ぼくの体をしっかり抱き返してくれるのを感じる。帰ってきた。ぼくは今日も、ここへ帰ってこられたのだと実感する。
「・・・ディナーもデートもブローチも、全部嬉しかったけど」
「うん?」
「一緒の帰ってこられたのが一番嬉しい」
「・・・そうか」
「うん。・・・ただいま、バンコラン」
「ああ。おかえり」
 落としてしまったタイと上着を早く拾ってクローゼットに入れてやらなければ皺になることは分かっていたけれど、あと少しだけ、こうしていたかった。彼の体温を、感じていたかった。
 
 
 仕事は早く終わったけれど、ディナーもデートもベッドも楽しんだので、眠るのは結局いつもと同じ時間になってしまった。
 それを告げるとバンコランは、少し笑って、それならさっさと眠れとぼくを抱き込んだ。
 素肌に触れる彼の黒髪が気持ちが良い。ぼくより僅かに高い体温の彼の肌に、安心する。
「今日は、良い日だったよ」
「そうか」
「あなたは?」
 問うぼくの声にも、答える彼の声にも、眠りの気配が漂っている。デスクワークは、銃撃戦以上にぼくらを消耗させたらしい。
「そうだな。悪くは無かった」
「悪くなかっただけ?」
 眠りに落ちるまで彼の声を聞いていたくて、問い返す。
「お前は、可愛いとばかり言っていたな」
 ああ、バンコランもきっともうすぐ眠るだろうな。
「そうかなあ・・・?」
「お前は何かと言えば可愛いというが、可愛いのはお前だろう」
「・・・え?」
 眠気が飛んでいった。
 彼の胸に埋めていた顔を跳ね上げると、バンコランは目を閉じてゆっくり呼吸をしている。眠ってしまったんだろうか。今の言葉は、半分眠りながらだったんだろうか。
「ねえ、ぼくのこと好き?」
 耳元に口を寄せて、確信犯的に聞いてみる。
「ああ・・・、好き・・・だ」
 いつもより不明瞭な滑舌。眠りに落ちる途中の言葉に、きっと嘘はない。嬉しくて嬉しくて抱きつきたいけれど、明日が今日のように平穏とは限らない。しっかり睡眠を取って、過酷かも知れない一日に備えなくては。もう早い時間ではないのだから。
 
 もう一度、彼の胸に頬を寄せて心臓の音を子守歌に目を閉じる。
 あなたはよく、ぼくの事を可愛いものが好きだって言うけど。そしてぼくを可愛いと思っていてくれるみたいなんだけど。そんなぼくを本当に好きなんだとしたら、あなただって可愛いものが好きなんだよね。
 
「可愛いのは、あなただ」
 小さな小さな声で、彼に囁く。
 夢の中に届くように。
 夢の中のあなたの側にも、どうかぼくがいますようにと、欲張りな願いを込めて。
 

 

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